島村英紀『長周新聞』2017年1月1日(水曜)号。6面。(その記事は)

「神の手」に踏み込んだ現代科学
蚊を絶滅する「遺伝子ドライブ」の発明

 私がパプアニューギニアに火山研究のために行ったときに、いちばん怖かったのはマラリアだった。私が行ったラバウルは、この200年間で7回も噴火した活発な火山地域なのである。

 マラリアを引き起こす原虫は単純な生物なので進化が早い。かつてのマラリアの特効薬、キニーネなど従来の薬が効かないマラリアがパプアニューギニアにも拡がっていた。

 世界でマラリアは病気の死亡率の3位で、毎年50万人近い死者を生んでいる。ちなみに1位はHIV(エイズ)、2位は結核である。なお、マラリアに感染する人は世界で2億5000万人.。世界の109ヶ国でマラリアが発生している。このうち半数近い45ヶ国がアフリカ諸国だ。

 また、2016年12月に報じられたが、古代のローマ帝国が崩壊したのも、マラリアが原因であったことが分かった。マラリアはかくも昔から、人間を悩ましてきたものなのだ。

 このほか、最近では蚊が媒介するジカ熱も南米をはじめ各国に拡がっている。小頭症など大きな厄災を引き起こすことが恐れられている。またデング熱も恐ろしい病気だが、これも蚊が媒介することが知られている。

 人類の敵、これらの病気は、いずれも蚊が媒介する。そのため、科学者は新しい手段を開発しつつある。

 それは「遺伝子組み替え」による蚊の絶滅である。「遺伝子組み替え」は「ゲノム編集」とも言われている。農作物にはすでに用いられていて、議論を巻き起こしている遺伝子組み替えだが、これを蚊に応用して、遺伝的に不妊になる蚊を大量に生産して、蚊を絶滅してしまおうという試みである。

 具体的には「遺伝子ドライブ」という、最近開発された手法を使う。人間や蚊のように「有性生殖」をする動物では、遺伝子に特定の遺伝形質を組み換えて、それを次世代以降に継承させる仕組みである。「遺伝子ドライブ」は、その継承を、いままでになく効率的に行える手法で、蚊のように寿命が短くて世代交代が早い動物では、改変した遺伝子を群全体に急速に拡散することが出来る。つまり、蚊を絶滅してしまうことが可能になる技術なのである。

 蚊がこの世からいなくなれば、マラリアやジカ熱など、蚊が媒介する伝染病がなくなるはずなのである。

 このためには、改変した遺伝子を持つ実験室で培養した蚊を野生に放さなければならない。それゆえ、いったん始めたら、取り返しがつく技術ではない。

 このため、科学者の足許で反対論や時期尚早論が高まっている。

 ひとつは生物が進化する過程でときどき起きる「突然変異」がこの技術にも起きるかも知れないことだ。もし突然変異が起きると、マラリアなどを媒介しないように意図したつもりだったのが、途中で変異が起きてしまって、予期しない形質が表れ、それが集団に広がってしまう可能性があることだ。

 二つ目は、標的にした群を越えて別の動物や昆虫に操作した遺伝子が移動してしまう潜在的な可能性が否定できないことだ。これは「異種交配」や「遺伝子流動」という、進化の過程では珍しくはないことで起きる。これも予想を超えてしまうことが起きることを意味する。

 つまり、標的にした「以外」の生物を意図しないで壊滅させてしまったり、いままでこの世には存在しなかった、より強靭な侵略性生物を台頭させたりするかもしれない。

 さらに、生態系への影響がある。動物や植物は全体としてひとつの生態系を作っているから、その中でひとつの生物が絶滅してしまうことによって、まわりの生物や生態系へ、思わざる影響を及ぼしていくことが考えられるのである。

 ことは「遺伝子ドライブ」には限らない。人為的な操作で生態系を変えてしまう可能性は、「遺伝子組み替え」など、最近の技術で広く指摘されていることである。

 この「遺伝子ドライブ」や「遺伝子組み替え」は、いわば、神だけが出来た領域に人間が踏み込んだことを意味している。

 人間にとって有害なものを人間の都合で排除してしまっていいものか。そして、もし思わざる結果が生まれてしまって、いまの科学では手に負えなくなったときにどうするのか。これらは、実際の研究に従事している科学者だけが考える問題ではあるまい。

 ことは蚊だけではない。害虫や害虫媒介による疾患を撲滅するために、有害なミバエなど、人間にとって有害な昆虫の排除や、一方、虫には食べられない農作物や、雑草を寄せ付けない農作物の生産など、この種の技術が科学者の手によって次々に生まれている。そのうえ、ヒトの精子や卵子や初期胚に手を加えて、疾患遺伝子を修正したり、遺伝子を「改良」することさえ可能になりつつある。

 私がかねがね主張しているように、科学は社会全体で支えてきたし、これからも支えたり監視したりすべきものである。科学の最先端は、この「遺伝子ドライブ」に限らず、一般の人々にも広く知られて、考えるべきことなのであろう。


 この記事


理研・STAP・小保方問題を島村英紀が書いたらこうなります (島村英紀『長周新聞』2014年4月9日号)
島村英紀『長周新聞』2015年12月23日号 「科学者にとっての軍事研究」
島村英紀『長周新聞』2015年1月1日号 「権力に囲い込まれた大学の研究崩壊」
島村英紀『長周新聞』2014年1月1日号「科学を左右しはじめた世界的な大企業」
島村英紀『長周新聞』2013年1月1日号 「イタリアの地震予知裁判---他人事ではない日本の体質
島村英紀『長周新聞』2012年1月1日号人はなぜ御用学者になるのか
 島村英紀『長周新聞』「原発は活断層だけを警戒していればいいのだろうか--原子力規制委員会の断層調査への疑問」へ

島村英紀・最近の新聞記事から
島村英紀・最近の雑誌記事やテレビから(執筆以外のインタビュー・対談)
島村英紀が書いた「地球と生き物の不思議な関係」へ
島村英紀が書いた「日本と日本以外」
島村英紀が書いた「もののあわれ」
島村英紀の著書一覧
本文目次に戻る
島村英紀・科学論文以外の発表著作リストに戻る
テーマ別エッセイ索引へ
「硬・軟」別エッセイ索引へ